「長篠の戦い」のスゴい伝令役は、鳥居強右衛門だけじゃない!
日本史あやしい話4
■武田軍に「ウソ」を強要されるも…
しかし、運悪く鳥居強右衛門は、長篠城を前にして武田軍に捕まってしまった。徳川勢が援軍として押しかけてくることを知った勝頼は、その到着前に長篠城を落とす必要があると判断。
そして強右衛門に対し、「援軍が来ないから早々に城を明け渡すように」とのニセ情報を伝えるよう強要した。その方法が、強右衛門を磔にしたまま、長篠城に向かって叫ばせるというものであった(長篠城間際まで引っ立てて叫ばせたとの説も)。万が一、かれが本当のことを言えば、即座に斬り殺そうと待ち構えていたのである。
これに対して、表向きは勝頼の言う通りにするとして磔にされる強右衛門。その姿のまま、長篠城に向かって叫び始めたのである。しかし、彼の口から発せられた言葉は、なんと、家康が援軍としてやってくるという事実そのものであった。「2〜3日のうちに援軍がやってくるから、それまで持ちこたえるように」と。
もちろん、勝頼が激怒したことはいうまでもない。即座に斬り殺されてしまった。しかし、強右衛門の命を賭けたひと言によって長篠城内は湧きたち、武田軍の猛攻をかろうじて凌ぐことができたのであった。
もともと三河の小豪族に過ぎなかった奥平家も、この家臣・強右衛門らの活躍によって主家としての名も高まり、江戸時代には10万石の大名にまで上り詰めたという。
■もう一人の伝令役・鈴木金七郎
さて、以上が鳥居強右衛門にまつわるお話であるが、本題とすべきはここから。奥平家の窮地を救わんと長篠城からの脱出を試みたのは、強右衛門だけではなかった。もう一人、鈴木金七郎(重政)なる人物にも、「強右衛門だけでは心もとない」として、同行するよう命が下されていたのである。
当時の記録『長篠日記』によれば、「水練上手なり。その上、物馴れし者」だったことが選ばれた理由だったとか。「水練」、つまり泳ぎが達者で、加えて「物馴れし者」というから、おそらくは狼煙(のろし)をあげる手筈を心得ていたことによるものだったのだろう。土地勘があったことも、選ばれた条件だったはずである。
強右衛門に続いて金七郎も、豊川を泳ぎわたって広瀬に上陸。金七郎の家(愛知県新城市富永屋川)に立ち寄って装束を整え、狼煙をあげるのに必要な材料を背負って628mの雁峰山(がんぼうさん)に登り、ひとまず脱出成功を知らせる狼煙をあげた。
また、それに先立って鈴木家の守り神である白山社に無事を祈願することも忘れなかったというから、憎いばかりに落ち着いた心持ちである。ただし、豊川に潜り込んだ際には相当苦労したようで、鳴子(触れると音が鳴る縄)や仕掛け網に引っかからぬよう、慎重かつ迅速に動いた末の脱出劇だったと言う。
ともあれ、岡崎城へと無事たどり着いた金七郎。明日にも援軍が出立できそうだと知らされるや否や、長篠城の北西1キロほどのところに位置する涼み松という松林に入った。長篠城下の人々の目に触れることを祈りながら、「援軍来る」の狼煙を上げたのである(狼煙を上げたのは強右衛門で、金七郎は岡崎城に留まっていたとの説も)。
大役を成し遂げた金七郎は、岡崎城に戻り、嫡子でなかったこともあって帰農したと伝えられている。前述の強右衛門が「武士の鑑」とまでもてはやされたのに対して、金七郎の存在はいつしか忘れられ、知る人ぞ知る状況になってしまったことは哀しいとしか言いようがない。
ただ、その子孫が今も存命というばかりか、金七郎の功績を見直そうとの機運が高まりつつあるというのが、わずかな救いである。もう一人の伝令役として活躍した金七郎なる人物がいたことも、是非とも頭に入れておいていただきたいと思うのだ。
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